父との永遠の別れ

こんにちは、青山です。

大変ご無沙汰しております。

ちょっと仕事とは関係ないお話させていただきますので、お時間ない方はスルーでお願いします。

前回メルマガ配信させていただいたのは3月8日。

それからピタリと音沙汰なくいたのにはワケがありまして。

やっとパソコンに向かって自分の気持ちを綴る余裕が出てきましたので、久々に文章をタイピングしています。

 

 

実は昨年7月末に父をガンで亡くしました。63歳でした。

皆さんも、大切なご家族を亡くされたり、大切な身近の方を亡くされる経験がおありの方は沢山いらっしゃると思います。

私は今までの日常が当たり前のように過ごしてきた中、急な父の病状悪化、余命宣告、闘病の末、死を経験しました。

おそらく自分が生きてきた中で、最大のダメージでした。。

 

 

手術後、家族だけに余命宣告を聞かされた3月。

その瞬間から私の時間はピタッと止まってしまいました。

実際起こっている現実に自分の心が全然追っ付けない。

「数ヶ月に死んでしまうなんて信じられない!」

「ぜったい奇跡を起こして病気を克服するんや。」

「どんなにお金がかかってもいいから、どうか父を助けたい!」

少しでも父が良くなるよう、もう私も必死で色々調べあさりました。

 

私と父の関係性

私は独身で、社会人以降は家を離れてずっと一人暮らし。

今まで自分の思うがままに仕事をしてきました。

自分の親に対しては、離れては暮らしていても「居て当たり前の存在」と思って今まで過ごしてきました。

実は、大人になるまではすごく父がキライだったんです。

亭主関白で厳格な父。

不器用でめちゃくちゃガンコ。

何をしてもずっと怒られてばかりで、ビクビクしながら子供の頃から学生の時期を過ごしました。

高校の反抗期には、父に反発し思いっきり殴られたこともあります。

その後、家出もしました。

その殴られた衝撃で、実家の元自分の部屋のドアが破れたんですが、その穴を見るたび今でもフラッシュバックします。

そういった経験から、父とは一生心が交わることのない存在だと位置付けてきました。

そんな父から離れたい一心で社会人以降は、

「一切親の援助や借りを作りたくない」

と、自立するため一人暮らしの道を選んで今に至ります。

 

 

ただ、私が社会に出て実家を離れ大人になるに連れ、徐々に家族がいてこそのいまの自分が居ると気づき始めるんですよね、振り返ると。

 

 

父への見方が変わる

私が短大卒業後、一旦就職しましたが半年で嫌になって離職し、フリーターをしてフラフラしてた時期があったんですよね。

自分は社会不適合者と痛感した時です。

当時そんな娘を見て親はヤイヤイ言ってはこなかったですが、正直かなり私のことを心配してたと思います。

そして私は、

「どこかに勤めるなんて性に合わない。好きな仕事でないと絶対続かない。だから手に職をつけて自分んで開業したい」

という思いがフツフツ沸いたんです。

でも当時、私にはお金がなかった。

そんな中、あの怖くてキライな父に本当は相談したくなかったけど、思い切って親に「相談がある」と持ちかけました。

「やりたい仕事が見つかった。手に職つけたいからセラピストの学校に通いたい」

と不器用ながらも親に伝えると、すると父が、

「そうか、やっとやりたいこと見つかったか。わしは応援する。頑張れ!」

と、私に対して心配そうな母を横目に、父は私の気持ちを肯定し、その費用を出してくれたんです。

その費用30万円。大金ですよね。

まさか、あんな父が一切否定することなく応援してくれるなんて私も驚きでした。

なんか複雑な思いでしたが、ちょっと喜んでる父の表情が垣間見れて、なんだか嬉しい自分もいました。

 

そして私が初めてサロンをオープンした22歳の時。

2LDKのマンションを借りて自宅サロン開業をする際も、物件の契約には連帯保証人が要ります。

また、その後脱毛器を購入するための借入350万円を銀行からする際も、22歳でフリーターの社会的信用のない私には連帯保証人が必要です。

どちらの時も恐る恐る父に、保証人になってほしいと話した時、

「なんかあったらワシがけつ拭くからな。」

と、何度も私に言い、快くサインしてくれました。

 

契約先から確認の電話が父にかかってきたとき、

「よろしくお願いします。」

と電話越しにペコペコしながら話ししていた背中をみて、胸が締め付けられそうになったのを今でも鮮明に思い出します。

(これ今綴りながらも涙が止まらない。笑)

 

あんなに厳しくて怖い存在だった父が、20代前半で未経験の仕事を、さらに自営のいばらの道を歩もうとする娘を一切否定せず、味方になって陰ながら力になってくれたこと、

本当に心から感謝してます。

今となっては親の愛を感じます。

当時のスタートが切れたから今の私があるんですよね。

父の後押しがなければ今の私はないのです。

 

 

そんな父に恩返しが出来てない

そこから我が道を一直線にズンズン進み、がむしゃらに仕事をしてきました。

冒頭にも書きましたが、親がいて当たり前と思っていたし、親孝行なんてまだ自分には早く、これっぽっちもしてきませんでした。

 

今年1月に、(もう一年前かぁ)

母から「ちょっとお父さんが調子よくないんよ」とポツリ。

ドキッとしました。

 

昨年6月に初めて癌が見つかって1回目の手術をしています。

その部分がどうやら固いシコリになってると。

便も出にくいし、食欲もイマイチということ。

確かに改めて父を見ると、ひとまわり痩せたように見えました。

 

そこから、精密検査を経て結果「ステージ4」と判明。

それを受けて私が見てきた景色が一変しました。

最後の望みをかけたセカンドオピニオン後の手術も、結局は開腹して閉じるに終わったのです。

手術直後、仕事で私は同席できなかったせいで母一人で主治医から余命宣告を受けます。

仕事が終わり、急いで病院に駆けつけたときの母の表情で私は察しました。

父のことが心配で心配で今にも倒れそうな母に、一人で主治医から余命を聞かせてしまったことを悔やみました。

母と私と2人きりになった際、私に伝えてくれましたが、

ショックの一言です。。

母は最期の最期まで不安にさせたくないと父には余命を伝えませんでした。

 

 

「余命なんて医者だからって分かるはずない!」

「なんでも乗り越えてきた父だから、奇跡はおこる!」

と言い聞かせ、どんな光でもいいから掴みたい一心でした。

 

私はそんな父が心配で、少しでも力になりたくて、入院先に毎日足を運んで、父の顔を見に行ってました。

4月、病室に私と父との二人きりだったある日、

「今日はな、天気良かったしリハビリがてら病院の裏の川に桜見に、看護士さんには内緒で散歩してきたわ」

「そしたらな、川にゴッツイ鯉がおってびっくりしたわー!」

と父が嬉しそうに私に話していました。

「あの川に鯉おんの!?あそこ桜キレイやもんなぁ。」

と、病室の窓からキレイに咲く川沿いの桜並木の景色を見ながら、

言葉では返していましたが、私の心の中では、

父はどんな気持ちで一人で桜を見に行ったのか。

私が聞いた余命では、父は来年桜を見ることは難しいこと。

いろんな思いが詰まってグチャグチャになって、涙をこらえる顔を見せられず、父の顔を直視できなかった自分がいました。

 

 

日を追うごとに、、、

「少しの光をも掴みたい」そんな想いとは裏腹に、父の病状はある時を境に転げるように進んでいきました。

現場仕事一筋だったあんなに筋肉質で大きかった父の体は、骨ばるほど細くなり、体力もなくなり、自分の脚で歩くことさえ精一杯になってしまいました。

もう父は自分の力で運転することもできなかったため、退院してから病院へ行く日、私が自分の車に父を隣に、そして母と姉は後部座席に乗せ病院へ向かっていました。

病院(京都)まで距離があったので高速に乗って向かってた時、

父「京都なんか何年ぶりに来たや?」

母「こんな遠いとこまで連れてってもらえるん、娘が近くにいてくれるおかげやで。よかったなぁ、お父さん」

父「おぉ、娘にドライブ連れてってもらえて嬉しいわ。」

そんな会話、、。

運転しながらその会話を耳にし、胸がとてつもなく苦しい。

父がこんな体になってから、病院への私の送り迎えがドライブだなんて。

悔しい。辛い。

お父さんごめん。

もっと元気な時に、美しい景色を一緒に見に連れってってあげればよかった。

何気ない日常で、普段からそんな機会をもてばよかった。

後悔の気持ちがこみ上げ、返す言葉が見つからず、必死で涙をこらえて運転したあの時、ほんと苦しかったです。

 

 

父に余命が告げられてから少しでも親孝行できていない穴を埋めたくて、自分でできること、父、家族のサポートを必死でしてきました。

でも自分でしてあげられることが本当に限られてて、見舞いや送り迎えくらいしかできない現実に、とても悔しい思いでした。

本当は

「父の命を救ってあげたい」

これ一つしかない。でも、突きつけられる現実は残酷でした。

 

ついに来てしまった

ある日真夜中の3時過ぎ。

ケータイが鳴ってハッとした。

虚ろな目で画面を見ると「お母さん」。

察した。ついにこの日が来てしまったと。

自分の心臓が止まりそうで、無我夢中で必死になって車で高速で病院へ向かいました。

なりふり構わずダッシュで病室へ駆けつけて、会えた時は父は、

すでに父に息はありませんでした。。。

 

「お父さん、ありがとう。」

まだあったかい父の身体を抱きしめて、涙、涙、涙ばかりでしたがハッキリと伝えました。

 

ガンコ者で素直じゃないところ、父に似てしまって、最後の最後まで父が生きてる間に感謝の気持ちを伝えられませんでした。

でも、今ならまだ近くにいる気がして素直に言葉に出てきました。

 

 

私の生きて来た33年間の中での父との時間。

振り返って、父には負の感情や色々抱いたときもあったけれど、

ほんとうに今は感謝の気持ちしかないです。

大人になって、親の愛というものを感じました。

もっと早く気づいて、それに応えるように親孝行してきたらよかったと思う後悔はありますが、

父が亡くなるまでの半年は、私のできることはしてきたし、父も私に会うたび嬉しそうにしてたのでそこだけ救われるところです。

 

 

父の闘病中、ほんとに自分の気持ちがどうかなりそうで、毎日毎日仕事はなんとかこなしていましたが、身が入らない状況がずっと続いていました。

お客様にフェイシャルをしていても、涙があふれ、お客様に気づかれないよう涙をふく。

施術をし何事もないようお客様と会話することが自分の振り出せる力でギリギリ精一杯でした。

自分がこんなにも悲しみと悔しさで埋め尽くされる状況で、SNSやこのブログに向けられる自分の余裕がなく、長く更新が空いてしまいました。

一つ前の記事も、父を待ってる間の病院の一人の時間の時に書いたのも思い出します。

 

父の死を経て得たもの

私自身、仕事一直線できましたが「自分の人生で大切なものは何か」をとても考えるようになりました。

もちろん仕事に一生懸命打ち込んでお金を稼ぐことも大事だけれど、

私の中で「大切な人と過ごす時間」の大事さにも気づかされました。

時間は巻き戻せません。

そして父も私が生きていくこの先の人生、一生帰ってこないのです。

『幸せって何?』

と、すごく大きなテーマが自分の中へ問いとしてやってきて、

父の死を経験した今は、これまでの自分の価値観とは変わった私がいます。

腑に落ちるように大切だと感じるものは「時間」と「健康」。

これからの私が生きていく中でこの2つは比重が重くなりそうです。

お金では買えないかけがえのないもの。

そんな幸せをこれからは大切にしていきたいと思っています。

 

なんだか、暗い話で申し訳なかったですが

ここのブログは私の等身大で綴っておりますので、ご了承ください。

私も痛みがわかる人として少しは成長したかもしれません。

そしてこれから、もっと人の厚みを持った大人になっていきたいなと思います。

 

また切り替えて、お仕事に関してのブログも書いていこうと思ってますので今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

青山

 

<無料メールセミナー>

このパールフェイスエステで、当サロンがどのようにしてグングン売上を伸ばしてきたのか。

その秘訣や方法を、8つに分けてお伝えします。

パールフェイスエステサロン【8つの成功秘策】
お名前*
メールアドレス*

 

特定商取引法に基づく表記

#エステスクール #エステ資格 #エステ開業 #フェイシャルエステ資格 #関西エステスクール #新メニュー導入 #エステ通信講座 #滋賀エステスクール #大阪エステスクール #京都エステスクール#福岡エステスクール #フェイシャルメニュー導入 #フェイシャルエステ導入 #エステティシャン資格 #エステスクール短期 #エリティス#日本補完代替医療 #ハトムギCRD